2011年10月02日

自閉症は心のわからない障がいじゃない



修学旅行の引率に行ってきました。
小学部6年間のまとめです。

例によって、私は大変忙しく、分単位で動いていました。

そんな私を見て、クラスの子どもたちは、バイキングでお茶を汲んできてくれたり、部屋の靴を整理してくれたり、私がほんのつかの間の休息をとっていると「ちょこん」と膝に乗って甘えてきてくれたり・・・

私が「今、してほしい」と思うことを、見事に読み取って、「自分から」行動してくれました。

もちろん、自分の身の回りのことも、お風呂で体を洗うことも、低学年の頃からは想像もつかないほど上手にできるようになっていました。

自閉症は、いわゆる「三つ組の障がい」と言われ、



  • 社会性の障がい

  • コミュニケーションの障がい

  • 想像力・こだわりの障がい


があります。

しかし、だからといって、これらのことが「できない」「わからない」わけではないのです。
「うまくいかない」「ちょっとまわりとずれる」「ちょっと不器用」なだけなのです。

毎日の生活の中で、私たち大人が、愛情をこめて、心から大切に思いながら接し、時には明確なルールを示し、人と人とのかかわりあいを丁寧に具体的に教えていくことで、子どもたちなりに「相手の心を読み取って行動する」ことができるようになります。

そのことを、今回の修学旅行で確信した、くろまめ先生でした。


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2011年09月08日

天使が舞い降りた




幼稚園の巡回相談に行ってきました。
私はいつも、巡回相談では、できるだけ子どもたちと遊ぶことにしています。

ネクタイをして、ファイルを持って、離れたところから「視察」しているだけでは、子どもの本当の姿は分かりません。

子どもに触れ、話し、遊び、勉強し・・・。
気がつけば「気になる子」もそうでない子も、私の周りに集まってくる。
両手両足に子どもたちがぶら下がって、満員御礼です(笑)
私に見られることを意識して、緊張していた園長先生や担任の先生も、笑顔で、いつも通りの姿を見せてくれます。

そうなって初めて、そのクラスの普段の様子が見えてきます。
子どもたちが、どうやって支援を受けてきたか、
先生がどんなに日々苦労して支援を工夫してきたか、
子どもたちは何を求めているか...etc.

それらの全体像が、手に取るように分かります。

今日は、子どもたちの大好きなプールでした。
私も裸足になって、ズボンをまくり上げ、一緒にプールに入りました。

光る水しぶき、みんなの笑い声、きらきらした瞳。

子どもたちは「みんな天使」です。
私に両手いっぱいの元気と幸せをくれました。

だから私も、それに少しでもお返しができるように、
子どもたちが帰宅した後、幼稚園の先生方に、
明日からの元気の素になるようにと、
精一杯のアドバイスをさせていただきました。

気がつけば、外はすっかり暗くなってしまっていましたけど(汗)

帰宅すると、相方が、ご飯と、私の大好きな「ジャイアント・コーン」を用意して待っててくれました。

いつも、本当にありがとう!


posted by くろまめ先生 at 01:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 発達障がい はてなブックマーク - 天使が舞い降りた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月07日

もし愛がなければ




今日、クラスの子どもが大きなパニックになりました。
原因は、スケジュールに見通しが持てなかったことと、気持ちがうまく伝えられなかったことです。

もし、あなたがその場面に遭遇したとしたら、あなたはどのように接しますか?

自閉症や支援方法についての高い知識、技能を持っていたら、どうしますか?

私は、その子どものそばに寄り添い、胸に手を当てて、呼吸と気持ちが落ち着くように導きます。
少し落ち着いてきたら、「嫌だったんだね、でも、もう大丈夫だよ」と、話しかけます。
そして、笑顔が戻ったら、分かりやすくスケジュールを説明します。

そうすると、あんなに荒れていた気持ちと行動が落ち着き、次の行動に自分から移ることができます。
そこで、いっぱいほめてあげます。

これは、専門的には、「広汎性発達障害の認知特性」「応用行動分析」「静的弛緩誘導法」を用いた支援テクニックです。

しかし、これらの専門的な方法を知っていても、それだけでは「絶対に」うまくいきません。
テクニックに溺れたとき、それは教育ではなくなってしまいます。

それらの専門的な支援方法は、目の前の子どもを愛し、育てたいという私の想いを具現化する手段なのです。

若い先生からよく「どうしたら、くろまめ先生のようになれますか?」と聞かれます。
私は「子どもをこころから愛することだよ」と答えます。
そして、「でも、ただ愛してるよ、と念じているだけでは、子どもたちには伝わらないよ。だから、子どもたちに伝える方法を、先生は学ぶ必要があるんだ。それを、僕から学べばいいんだよ。」と教えるようにしています。

どんなに優れた知識も、技能も、愛がなければ、私にとっては「何の意味もない」からです。

そして私自身、どんなに豊かでも、大好きなMacやバイクに囲まれていても、相方がいなければ、すべてが無味乾燥した殺伐としたものになってしまうでしょう。
逆に、質素な暮らしでも、相方がいれば、心の豊かさは、かけがえのないものになります。

明日は幼稚園に指導助言に行きます。
どんな子どもたちに会えるか、楽しみです。


聖書で、愛について語られている、私の大好きな章を紹介します。


<コリント人への第一の手紙>

第13章(CHAPTER 13) 〜愛の讃歌〜
たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。


posted by くろまめ先生 at 01:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 発達障がい はてなブックマーク - もし愛がなければ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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